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冬季学園講話会が行われました

 令和元年12月7日 学園講話会が行われました。
本学の学園講話会は年2回、さまざまな分野でご活躍された講師を学外からお招きし、講話を頂戴しております。
元号が令和となり2回目となる、今回の学園講話会は弘前市社会福祉協議会会長柳田光祥先生を講師にお招きいたしました。

最初に下田理事長より講師の紹介がありました。「柳田先生はこれまでは弘前市とつながりが強い弘前市社会福祉協議会において、民間出身からは初となる会長として多くの活動に尽力されております。
さらに、お話とは別にビートルズの歌なども聞けるとあって、非常にバラエティに富んだいままでにない、うれしく楽しいお話が聞けると思います。学生諸君、今回は楽しく勉強しましょう。」とのあいさつで始まりました。

柳田先生の講話は自身のお名前の説明から始まり、ご両親がご子息様を早くに亡くされた経験から、立派な名前を付けていただこうと、姓名判断などが一般には普及していなかった時代、お寺の和尚様につけていただいたお名前だそうです。昔は女性のような名前で嫌だったそうですが、今では立派な名前をつけていただいたと思っているとのお話から始まりました

昔から好奇心が強く、当時テレビというものが一般に普及され始めたばかりのころ、自宅にテレビが設置された時、映画館にいかなくても番組をたくさん見られることに感動しました。ですが同時に「なぜテレビは映るのか?」「どういう原理なのか?」、小学校の図書館で本を探し「電気とは?」など物事の仕組みを独学で学んでいったとのことでした。

それから、高校生の時、流行していたベンチャーズのエレキギターに憧れ、町の楽器屋さんの前を通ると、当時加山雄三が使っていたエレキギターを見つけ、いつか買うぞと決め毎日眺めていたそうです。するとある日、エレキギターが店から無くなり、だれが買ったんだと落ち込みながら家に帰ったところ、そのエレキギターを母と祖母がこっそり買ってくれていたことにとても喜んだそうです。それからは勉強よりも、エレキギターに夢中になる日々を過ごしていたとの事でした。当時はビートルズも大変流行し、柳田先生も「ビートルズきちがい」と自称するほどでした。そのビートルズが来日するとなったら、大変喜んだものですが、高校の先生にはビートルズが良くないものと言われたことや、小学生時代に腑に落ちない指導を受けた経験から、無理に学ぶのではなく、自分でやりたいことを学ぼうと決めたそうです。

その後、周りは大学に進学する生徒がほとんどの中、東京の電子技術専門学校に進学し電子工学に励み、弘前のまちの電気屋さんに就職したそうです。就職後、早く所帯持つようになり、一緒に生活を始めるときに嫁入り道具に持ってきた、日本文学全集などを見た父がこれは素晴らしい文学少女が嫁に来たと思い、とある本の一小節について質問を投げかけました。すると、妻は「これは家族がセールスに押され買ってしまったものを、嫁入りの時に渡されただけ。中身はさっぱりわかりません」とはっきり答えたところ、父は今までは覚えたふりをする人ばかりだったのに、分からないものはわからないとはっきり答えたことを偉く気に入ったそうです。それを見たときに人間知識だけではなく、知恵も必要。そしてどちらも両立できて初めて円満な人格が形成されると感じました。その妻に勇気をもらい、周りからは猛反対される中、小さいころからの夢だった建築の世界に飛び込んだそうです。

柳田先生には脳膜炎による発達障害を持った兄がおり、兄とは小さい頃は仲が良かったが、知恵が追いつく頃にはその兄のことで、喧嘩をする父と母の姿を見て兄を疎ましく思うようになりました。やがて自力では動けなくなった兄が、宵宮で楽しそうにしている人々を窓から眺める姿を見て、何の気もなく、宵宮でおもちゃを買ってきて兄に渡したところ、とても喜んでいる姿に、今まで兄の存在を恥ずかしいと思っていた自分が恥ずかしいと思うようになりました。その後、5人の子宝に恵まれましたが、4番目の子供が発達障害であると小学校の校長に告げられ、落胆し幸せは追いかけると逃げ、不幸は逃げると追いかけてくるものだと感じ、親にならなければ、結婚しなければよかったとも思ったそうです。ですが、一緒に話を聞いた妻はひとしきり大泣きをした後にすっきりしたように「あーお父さん私頑張る!」との声にまた、励まされたそうです。娘が通っていた小学校のPTA会長を引き受けたところ、手のひらを返したように接してくれる教員を見て、人生厚かましく生きるものだと感じたとのことでした。それでも、勉強の覚えが他の子より遅く、PTA会長の娘は頭がおかしいと言われているのではないかと、言われてもいないことを勝手に悩み、娘を転校させようと考えた時、友達がたくさんいるから嫌だと泣く姿を見て「他の子は10教えたら頭がよければ8はすんなり覚える、うちの娘は1か2しか覚えられない。でも先生から教わった1か2が宝物なのだ」と考え転校はさせなかったそうです。

最後に教育の中に社会福祉があるのではなく、社会福祉とは弱き者を助ける教育のベースになるものである。この大学の建学の精神にホスピタリティーという言葉がある。相手を思いやることがとても大事で難しいことを考える必要は無いのではないかと思う。「人間(じんかん)到る処青山あり」人は人の間に埋もれ青山に骨をうずめるつもりでかかれば後悔することはないとの言葉で締めくくられました。

合間にご自慢のエレキギターにのせて歌を披露していただき、講話と歌は関係ないと話されていましたが、最後に歌っていただいた県民歌である「青い森からのメッセージ」には「あなたが花になれば 私は草になろう」と歌詞がありホスピタリティーにも通ずる、メッセージが込められていたと思います。学生からも「お話を聞いて弱いものを助ける正義の味方になりたい」と感想を強く話していました。「人間到る処青山あり」学生はこれから進む将来、どんな場所でも医療福祉のスペシャリストとして、だれかのために活躍できる人材に成長していただければ幸いです。柳田先生貴重なご講話をありがとうございました。